孤独死者は現代日本の英雄。家族や社会に負担を掛ける寝たきり老人の100倍偉い

孤独死者は現代日本の英雄です。孤独死者は家族や社会に負担を掛けて生き永らえている要介護の寝たきり老人の100倍偉いです。本来は悲惨な死に方どころか現代日本の英雄として褒め称えられるべき存在が孤独死者なのです。

孤独死を栄誉ある死として褒め称える文化を育むべき

これからの日本では、孤独死を栄誉ある死として褒め称える文化を育むべきです。

戦時中の日本では、戦争で死んだ兵士を国家の英霊として奉っていましたが、現在の日本では孤独死者こそが国の英雄です。

自分で自分の最低限のことすら出来ない状態で生きながらえて、家族や社会に重い負担を掛け続ける寝たきり老人達。彼らに比べれば誰にも迷惑も負担も掛けることなく一人でひっそりと死んでいく孤独死者は本当に立派な存在です。

社会や家族に頼ることなく一人で死と立ち向かった孤独死者は、現代社会における一種の即身仏の様な存在なのです。

参考:即身成仏 – Wikipedia

密教系の日本仏教の一部では、僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命し、ミイラ化した物を「即身仏」(そくしんぶつ)と呼ぶ。仏教の修行の中でも最も過酷なものとして知られる。

この背景にあるのは入定(“にゅうじょう”ないしは生入定)という観念で、「入定ミイラ」とも言われる。本来は悟りを開くことだが、死を死ではなく永遠の生命の獲得とする考えである。入定した者は肉体も永遠性を得るとされた。

日本においては山形県の庄内地方などに分布し、現在も寺で公開されているところもある。また、中国では一部の禅宗寺院で、今もなおミイラ化した高僧が祀られている。

木の皮や木の実を食べることによって命をつなぎ、経を読んだり瞑想をする。まず最も腐敗の原因となる脂肪が燃焼され、次に筋肉が糖として消費され、皮下脂肪が落ちていき水分も少なくなる。生きている間にミイラの状態に体を近づける。生きたまま箱に入りそれを土中に埋めさせ読経をしながら入定した例もあった。この場合、節をぬいた竹で箱と地上を繋ぎ、空気の確保と最低限の通信(行者は読経をしながら鈴を鳴らす。鈴が鳴らなくなった時が入定のときである)を行えるようにした。行者は墓に入る前に漆の茶を飲み嘔吐することによって体の水分を少なくしていたといわれている。

彼らの様な誰にも迷惑を掛けず一人勇敢に死と立ち向かった立派な孤独死者を後世に語り継ぎ伝えていく為に、孤独死者を奉る為に靖国神社の様な立派な霊廟を建設するべきです。

そして、多くの国民や政治家がその霊廟に参拝に行き、「あなたの様な勇敢な孤独死者のお陰でこの国は成り立っている」と孤独死者の魂に感謝の態度と気持ちを示すべきなのです。

そして小学校や中学校などでの学校の授業でも、戦時中の教育勅語の様に「孤独死者は英雄である!」と徹底的な情操教育を叩き込むのです。

この様に「孤独死は栄誉ある死である」という文化が広がれば、人々が孤独死を異常に恐れることがなくなりますし、家族や社会に迷惑を掛けずに自ら孤独死を選ぶ立派な老人も増えるでしょう。

寝たきりになり施設や家族に介護される多くの老人たちが自ら「栄誉ある孤独死」を選ぶようになることで、現在の日本で深刻さを極める社会保障や医療費の問題も大幅な改善が見込めるはずです。

下の世話をされる老人の方が孤独死者の100倍悲惨です

1人で死と立ち向かう孤独死は勇敢で栄誉ある死です。

それに比べて、下の世話をされても生きながらえる要介護寝たきり老人達は、人間としての尊厳やプライドというものを完全に捨ててしまったのでしょうか?

人として最低限のことすら出来なくなり、年配の大人であるにも関わらず、小便や大便の世話をされ、まるで赤ん坊の様な扱いをされて生きている。そんな恥さらしの悲惨な余生を彼らはなぜ我慢することが出来るのでしょうか?

私だったら小便や大便などの世話を人にされるくらいなら死んだ方が100倍マシです。介護士に下の世話をされるのも嫌ですし、自分の子供や家族や配偶者に下の世話をされるのはもっと嫌です。本当に心の底から、そんな屈辱を味わうくらいなら孤独死で死んだ方がマシだと思います。

オムツなんて死ぬまで絶対に履きたくありません。オムツは赤ちゃんの為のものです。大人の履くものじゃ決してありません。オムツを履くくらいなら何も物を食べずに餓死を選びます。

無理矢理死に損ないの老人を生かし続けるおかしな社会

今の日本は無理矢理に死に損ないの老人を生かし続けるおかしな社会です。

高齢化問題などということが言われていますが、無理やり死にぞこないの老人を生かし続けることが問題の元凶なのです。

現在の日本では、社会的に完全に死んだような要介護の寝たきり老人を生かし続けるという無駄の為に、膨大な労力と資源と税金と負担とが注がれているのです。

相模原障害者施設殺傷事件を引き起こし、障害者施設「相模原津久井やまゆり園」で入所者46人を殺傷した植松聖容疑者の様に、要介護の寝たきり老人を「皆殺しにしてしまえ」ということを言うつもりはありませんが、「自ら栄誉ある死を選ぶ」という権利も私達人間は持つべきなのです。

参考:相模原障害者施設殺傷事件 – Wikipedia

世の中では「孤独死は悲惨である」という語り方しかしないために、必死になって生にしがみ付き、社会や家族に多大な負担を掛け続ける老人が増えます。その様なマインドから生じているのが、今日の日本の医療費や社会保障などの深刻な社会問題です。

逆に、死ぬまで人としてのプライドと尊厳を持って一人で生きる。人として自分の最低限のことが出来なくなれば孤独死して死ぬ。その様な社会の方がよっぽど老人にとっても幸福で望ましい社会のはずです。

孤独死を異常に蔑みそして恐れる風潮やマインドをなくし、「孤独死は栄誉ある死である」という認識が広まれば、この日本は現在よりも遥かに幸福で住みやすい国となるはずです。

孤独死のニュースがテレビに流れると「私もこういう風に一人で立派に死にたい」と若い人々が思い、「わしは何でこの人の様に立派に孤独死出来なかったんだ」と老人が羨む様な社会になれば、この日本という国は本当に素晴らしい国になると思います。

無理矢理死に損ないの老人を生かし続ける様な今の日本社会は、どう考えてもおかしいですし、何かが完全に狂っています。

そして世の中の狂った風潮のせいで、本心では私と同様に介護されるくらいなら死んだ方がマシという人間としての尊厳を持ちながら、望まない不幸な介護生活を強いられている老人も日本では非常に多いものと思われます。

植松聖容疑者の引き起こした大量殺傷事件も、この様な日本の本質的な問題を見つめ直す契機としていくべきではないでしょうか。

なぜ現在の日本では尊厳ある死の権利が認められないのか

なぜ現在の日本では尊厳ある死の権利が認められないのかということが言えます。

人間の権利である尊厳ある死すらも認めない現在の日本の社会は、非常に後進的で非人道的な社会です。そして、英雄である孤独死者の尊厳を踏みにじる報道を繰り返す狂った社会でもあります。

米国における「尊厳死」は「医師による自殺幇助」を意味します。しかし、日本では「医師による自殺幇助」は「安楽死」と言われます。そして、日本では安楽死は違法な犯罪行為とされています。

ヨーロッパのイギリスやフランスでも安楽死は日本と同様に犯罪行為ですが、患者の人権として、リビングウィル (生前の意思表示) に基づく自然死が法制化されています。

日本では安楽死は違法な犯罪行為とされ、そしてさらに日本ではリビングウィル (生前の意思表示) に基づく自然死が法制化されていません。

つまり日本は事実上、死ぬ意思を持たない人間、尊厳ある死を望む人間を、医療行為によって実験モルモットの様に強制的に生かし続けるという残虐行為なども可能な野蛮人の国だということです。

植松聖容疑者の引き起こした相模原障害者施設殺傷事件なども、この様な日本社会の狂った価値観に問題提起した出来事と言えます。私達日本人の一人一人が「尊厳ある死とは何か」「モルモットの様にされて生きる意味があるのか」という本質的な問題に目を向けなければならない時が来ているのです。

以上、「孤独死者は現代日本の英雄。家族や社会に負担を掛ける寝たきり老人の100倍偉い」の記事でした。

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